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My History

生粋の宮っ子

私が知っている範囲でも、祖母が西宮市染殿町で育っていますので、祖母のその前からずっと宮っ子です。

祖母は近くの用海小学校から現在福祉センターがあるところに存在した西宮女学校(現・市立西宮高校)。
父も叔父(父の弟)も私も用海小学校、今津中学校、母親も甲子園育ちという生粋の西宮生まれ、西宮育ちの宮っ子です。
ちなみに叔父と私は幼稚園は善塔幼稚園出身と、西宮の生え抜きです。

生まれた時からでかかった(笑)

実は私、2週間早産で、しかもタスキ状ではあるもののヘソの緒が首に巻き付いた状態で生まれてきました。

しかし体重4kg(笑)

ただ、生まれてすぐは泣きもせず、私を取り上げた医師は「死んでる?」と思ったそうです。
また、ガリガリだったそうで、ガリガリなのに4kgもあるので何度も体重計に乗せ直したとか。
その時の体重計の乗せるところが鉄だったため、その冷たさで泣き出したそうです(笑)。

阪神大震災までは、祖父が現在当院がある場所で「松村医院」という内科のクリニックをやっていました。
その祖父の医者仲間で、当時JR西宮駅近くにあった佐治(さじ)産婦人科という医者仲間のクリニックで生まれたのですが、祖父の葬式の際、私を取り上げてくれた先生に

「骨がごっついからデカなると思ってたけど、ここまでデカなるとはな〜」

と言われました。
ちなみに初乳の量が通常の3倍の量を一気に飲んだそうなのですが、2週間早産で4kg、初乳の量ともに祖父の葬式があったその日まで、記録は抜かれていないそうです。
(現在、このクリニックは当時の先生が亡くなられ閉院されています)

理不尽なことが大嫌いになった理由

実は私、母親から「虐待」と言ってもいいんじゃないか?と思うようなことを受けておりました。
もちろん当時はそうとは微塵も感じていませんでした。

というか、あるセミナーで過去を掘り起こすワークをしたのですが、その時になって私の子供の頃の記憶をたどっていくと「どうやらこれは虐待レベルだぞ」という感じになったのです。
(要するにすっかり忘れていたのですが、なぜ忘れていたかは後述させていただきます)

自分勝手でワガママで気分屋、そんな母親でした。

母親

私は常に殴られていました。
私が悪い時はもちろんですが、自分の機嫌が悪い時は理由なく針金のハンガーやプラスチックのバッドで殴られたり、玄関のタイルの床に何時間も正座させられ、往復ビンタの嵐を喰らっていました。

ご飯を食べている時に機嫌が悪いと、理不尽な理由で急にブチギレてご飯が入った茶碗を私に投げつけてきました。
私も慣れたものですのでそれを避けると、もちろん茶碗は割れ、床にご飯が「ベチャッ!」という感じで落ちます。
すると…

「汚れたやないのっ!!!」

と理不尽に怒り私を殴る、そんな母親でした。(超実話です)

機嫌が良い時は楽しく話をするのですが、私自身はいつ何時機嫌が変わるかわからないのでいつも臨戦態勢で警戒していました。
まるで武道家かアントニオ猪木のようですね。

今考えると、料理も下手で、なおかつあまりしていませんでした。
私は好き嫌いが多いほうで、今でこそ食べられるものは増えましたが、当時はほうれん草のおひたしや茄子も嫌いでした。

高校時代、同級生の家に泊まりに行った時にわかったのですが、食材がマズいのではなく、母親が料理が下手でマズい、もしくはスーパーの出来合いを買ってきていたからマズい、ただそれだけでした。

それだけでなく四角い卵焼き(もしくはだし巻き)は業者しか作ることができないと思っていましたし、食事中もいつキレるかわからない、しかし腹は減るから(なんせ初乳が一般の三倍なので 笑)、たくさんの量を素早く食べるという、いわゆる早食いが特技のようになりました。

本当は一番安心できるはずの自宅で、常に理不尽な思いをしていた私は、この頃から理不尽なことに対して過剰に反応するようになっていました。

小学生の頃は機動戦士ガンダムにハマリ、ガンプラを作っていました。
高学年頃からはガンダムだけでなく当時全盛期だった少年ジャンプのマンガにはまり「よろしくメカドック」という漫画の影響で車も好きになり、車のプラモデルを作るようになっていました。
アニメのワンシーンを再現する「ジオラマ」を作ったりしていたものです。
エアブラシで塗装したりして、結構本格的でしたし、ラジコンも作って遊んでましたね。

と、ここで終わればちょっと引きこもりがちな小学生って感じでかわいいものです。
しかし、先述したような母親に育てられた私がそんなかわいらしい小学生になどなるはずもありません。
しかも私は人一倍身体がデカい!(小学5年生で165cm85kgありました、参考までに 笑)

勉強ができるようになり大嫌いになる

小学校高学年の頃は、祖父が医者だったこともあり、父が私を医者にさせたかったのでしょう、アホみたいに勉強させられる塾に入れられてました。
今はもうないのですが、阪口塾(坂口だったかな?忘れました)という当時浜学園としのぎを削っていた塾です。
灘、甲陽は当たり前、真ん中くらいの成績の子でも六甲、という感じでした。
そこの塾長が、祖父と大阪帝国大学(現・大阪大学)で同期だったとかで、大して学力もないのにコネ入塾させられたのです。
それからは毎日1日8時間くらい勉強させられました。

学力は異常につきましたが、勉強が心底大嫌いになりました。

テニスも大嫌いになる

また当時は祖父、父、母みんなテニスをしていました。
私は身体が大きいだけでなく左利きだったため、プロにでもさせたかったのでしょう。
私も物心ついた頃からテニスをやらされ、高学年の頃は結構厳しくされました。
それがイヤでテニスが心底大嫌いになりました。

灘や甲陽を狙うほどの塾で勉強、そしてテニスで厳しいレッスン、小学生に両立しろというほうが酷でないでしょうか。

そのストレスからか、学校では気に入らないものはとりあえず殴る、蹴る。
何度となく校長室に行きました。(当時の被害者の皆様、本当に申し訳ありません)
当時は担任までぶん殴っていました。
授業中も立ち歩く、騒ぐ、暴れるは当たり前で、学級崩壊の原因でした。

基準値の中での理不尽

ただ「泥棒にも三分の理」と言います。
私の言い分を書かせていただくと、当時の私の基準の中で理不尽があったからです。

例えば…
当時小学校では「平等」をうるさく言われました。
(そういえば小・中と音楽の授業で国歌を習ったことがありません、当時の西宮市って日教組が強かったのでしょうか?)

先生は「平等」というくせに、例えば掃除の時「背が高いから」という理由だけで私の担当の掃除のところ以外の高いところの掃除をさせられる。

大人からすると些細なことかもしれませんが、当時の私にとっては理不尽極まりないことです。
もちろん拒否します。
すると当時の教師は「先生の言うことを聞け」と権力、立場を理由に私に強要するというこれまた私の嫌いな理不尽を押しつけてくるという状況でした。

だから私は家も嫌いでしたが、学校も嫌いでした。
汚い話、朝は毎日下痢でした。
給食もマズいですし、そもそも牛乳嫌いですし(笑)

しかし塾のおかげで学校のテストはいつも100点。
という教師、というか大人全般から見てもかなりかわいげのない子供だったと思います。

とまあ、私の小学生時代は本当に黒歴史のようなもので、都合の良いことは忘れてしまうのかあまり記憶にも残っておりません(笑)

柔道、そして生涯の仕事と出会った中学生時代

小学6年のとき、学力的には六甲に入れるくらいにはなっていたものの勉強が心底嫌いになっていたため、一切受験を拒否し公立の今津中学校に進学しました。
当時の今津中学校はとてもガラの悪い学校で、1年生の時の3年生の卒業式にはパトカーが待機しているほどでした。

当初、何も考えずテニス部に入部しましたが、こちらは3歳くらいからラケットと触れあってるわけです。
かたや1年生の時の3年生は下手するとテニス歴2年ちょっと。
どちらが上手かなんて火を見るより明らかです。
にも関わらず1年生はボール拾いのみ。

「先輩の練習を見とけ!」

なんて言われても、下手くそ同士の練習を見ても面白くもなんともありません。
ここでも理不尽嫌いが遺憾なく発揮され、1年生の終わり頃に退部します。

そのまま少しフラフラしていたのですが、2年生になったら「身体がでかい」という理由から柔道部の顧問に声をかけられました。
それと同時に、同じ小学校で校長室呼び出し仲間(要するに問題児)だった同級生が小さい頃から柔道をしていて、顧問がその友人も使って柔道部に誘ってきました。
柔道というもの自体を知らなかった私は、柔道部に入部しました。

さすがに今度はケツ割って辞めるのはかっこ悪いな〜くらいには思っていたので、受身の練習とか全然面白くはありませんでしたし、当時はウサギ跳びとか腕立て伏せとかイヤなことばかりでしたが、我慢してやっていました。
ただ、先輩の中で強い人は黒帯を巻いていて、私を誘った同級生も黒帯を巻いていてそれがかっこよかったので「せめて黒帯くらい取ろう」と頑張った記憶があります。

せめて黒帯くらいは取る…

しかし、その目標はいともカンタンに達成してしまいます。黒帯が欲しかった私は、その同級生が通っている道場に入門し、部活だけでなく高校生や大学生相手にその道場で稽古をしていました。
そのおかげもあり、なんと柔道を始めて2週間足らずで初段になってしまいます。

今でも鮮明に覚えているのですが、初段になるためには3人に勝たないといけないのですが一人目だけが中学生で、2人目は高校生、3人目は神戸大学の大学生でした。

前日に道場で「お前、柔道始めて間もないのに昇段試験受けんのか?まあ勝てへんやろけど1点でも取れるように2つだけ技を教えるからこれだけ試合でやってこい!」と言われた技だけで3人に勝ちました。

実はこの時に嬉しいことがありました。
3勝して昇段の手続きをする際に、全然知らない先生から声をかけられたのです。

「君、柔道初めてどれくらいや」

そう聞かれました。
今はわかりませんが、当時は柔道を始めてからあまり日が浅いといけなかったので、適当に

「1年くらいです」

と答えたと思います。
すると

「君は強くなる!絶対に柔道やめたらアカンぞ!頑張れよ!」

と言ってくださったのです。
あの時のあの先生の言葉はとても嬉しかったです。

そして黒帯を取ってから2、3ヶ月後の西宮市内大会で3位入賞してしまいます。
準決勝は見事に投げられて負けましたが、初めて出た公式試合で賞状をいただくという経験をしてしまいました。

テニス、勉強では怒られてばかり、家では母親が気分次第で荒れるという環境だった私は、柔道において初めて成功体験を積んだことによって、柔道にドップリはまることになります。

柔道へ

もっと強くなりたい、と思い、初代女子高校柔道のインターハイチャンピオンになった夙川学院に出稽古まで行くようになりました。

結局中学生時代は西宮市内では勝てるけど阪神大会では全然ダメで県大会すらも出られないという低いレベルではあるものの、毎日の部活(日曜は休み)、部活終わってからの道場(火・木・土)、そして夙川学院の出稽古(日曜日)という形でほぼ毎日柔道をするようになっていました。

(「あれ?小学生時代あれだけ書いてた母親全然登場せえへんやん!」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんので補足程度に書いておきます。この頃、父は単身赴任をしておりましたので、母親はほぼ毎日2時3時まで飲み歩くことに忙しかったようで、あまり私に干渉しなくなりました。これには本当に助かりました)

金澤先生との出会い

なんにせよ、中学生の頃も中学2年生の頃の担任の先生が理不尽だったためネクタイで首を絞めたり、学校でタバコを吸ったり酒を飲んだりと色々やらかしはしましたが、柔道に夢中になれたおかげで、大きく道を踏み外すことなくすごすことができただけでなく、柔道による出会いが今後の人生を決めていくことになったのです。

実はこの中学時代に私の今の人生は決まったような感じです。
柔道の出会いにより、中学校近くの町道場に通うようになります。

その道場は柔道以外にも様々な武道が集まっており、柔道の先生ももちろん柔道もしますが古流柔術をされており「柔道強くなるには古流もやれ」ということで中学生の頃から古流柔術も習うようになりました。

殴る、蹴る、投げる、絞める、極める(関節技)なんでもありです。
そしてその古流柔術を教えておられる先生が、「今津柔道接骨院」という接骨院の金澤先生という先生でした。

中学生の頃に足首を怪我してた時、足首に適当に包帯を巻いて稽古していたのを見た金澤先生に「足どないしてん」と声をかけていただき、症状をお伝えしたところ「うちに治療においで」と言ってくださったのです。

実際、今津柔道接骨院に受診させていただくと、金澤先生がものすごくかっこよく見えたんです。
柔道も柔術も強い、そして仕事もかっこいい。
金澤先生に憧れるようになるのは時間の問題でした。

そしてその時に「俺も将来は金澤先生みたいになりたいな〜」と思うようになったのです。
そう、すでにこの時点で私の将来は決定していたのかもしれません。

勉強しないで柔道が強くなるには…

実は中学生時代も勉強はしなかったものの、小学生時代の貯金で成績はかなり良いほうでした。
ここでも「高校から六甲行ける!」と担任に言われていました。
小学生時代の学力はなんとかキープしていたわけです。ですので、公立高校も私学も選択肢はたくさんありました。

しかし勉強は嫌い。
もし六甲なんかに進学したら、アホほど勉強させられるはず。
それは絶対に嫌でした。
公立高校も勉強しないといけないだろうと。
なんとか勉強しなくても良い方法はないかと模索(笑)していました。

また当時は柔道は弱かったものの、柔道が好きで強くなりたかった私は、どうすれば柔道が強くなれるかばっかり考えるようになりました。

勉強しなくてよくて、柔道が強くなれるところ…

そんな高校が世の中には存在したのです。
それが報徳学園でした。
(誤解なきように書いておきますが、これは私が高校生になる20年以上も前の話で、今は報徳も勉強に力を入れております)

この世の地獄を味わいながらも将来を確定させた高校生時代

道場の先生が報徳柔道部出身だったこともあり、報徳学園進学を決めたものの、私を医者にさせたい父親からは「報徳なんて行ったら二度と勉強できなくなる!」母親からは「あんなダサい学校アカン!最低でも関学か甲南や!女の子に相手されんようになるで!私らのころは報徳なんて臭くて相手せんかった!」(母親は中・高・大と神戸松蔭のお嬢様なんです)と猛反対をされたのですが、なんとか押し切り入学しました。

同級生は中学生の頃阪神大会の上位常連ばかり。
先輩はヤクザみたいに怖い顔の人ばっかり。
練習はえげつないほどキツい。
監督は殴る蹴るでとりあえず怖い。

もちろん入学してすぐ報徳学園に入ったことを後悔しました。
当時は先輩からのイジメも相当なもので、私はある先輩に目を付けられ、

「お前これから毎日最低10回絞めて落としたるからな」

と言われ、実際に実行されました。
ただ、寝技の練習中だけだと10回も落ちません。
結局練習中だけでは10回に届かないため、朝練で筋トレしている時や休み時間に教室にいる時にまで襲われきっちり毎日10回絞めて落とされていました。
1日に何度も絞めて落とされると、目の白い部分の毛細血管が破れてしまって、ウサギの目みたいになるんですよ。

理不尽が嫌いな私ですから、多分何か先輩命令が出た時にイヤな顔をしてたんでしょうね。
だから目をつけられたんだと思います。

3年生からも2年生からも一部の人にではありますが毎日殴る蹴るというほぼ暴行を受けておりました。
そして柔道も弱いので練習でもボコボコです。柔道でボロボロ、練習終わってからのイジメ(当時は説教と言いました)でボロボロ。

高校入学時187cmで90kg近くあった体重は、なんと入学して3ヶ月ほどで72kgまで落ちました。

地獄のような日々…

そこからは「お前は細すぎる!飯食え!」「稽古してないから筋肉つかへんのじゃ、ボケ!」と怒られ、殴られ、毎日稽古し、筋トレし、ランニングをしました。家に帰ってからも腕立て伏せをしたり、スクワットをしたり、マズいプロテインを飲んだり…

しかし強くなるどころか、私はどんどん弱くなっていきました。
毎日朝起きても疲労が取れず、身体が異常にだるい。力も全く出ない。
こんな状態で試合に勝てるはずもなく、1年生の頃は試合に勝ったことがありませんでした。
弱い公立高校の選手にも投げられるほどでした。
今ならこれがオーバートレーニング症候群であることがわかるのですが、当時は「まだ稽古足りひんのか?」と悩んでいました。

また、稽古だけならまだしも、毎日イジメもあります。
正直、

「このままやと死ぬんちゃうかな」

と毎日思いながら学校に行っていました。

しかし、今考えると面白いもので毎日10回絞めて落とされて、殴られ、蹴られ、投げられるのも頭から落とされたり顔から落とされたりしながらのアホみたいにキツい、それこそ今なら死人が出るような内容の稽古(夏なら窓を閉め切って、水を飲むのも禁止して数時間の稽古など)をして「死ぬかもしれん」と思うほどに追い込まれたら、逆に「なんとかして生き延びないと!」と動物が持っている生存本能が発揮されていくのです。

人生の中でこれほど追い込まれた経験ができるのは若いうちだけですし、今となっては本当に良い経験をしたなと思います。
実際、あの頃のあの経験で、私は柔道も強くなりましたが、身体自体も強くなりました。
もちろんもう二度と経験したくない地獄ですが。

心安まる接骨院

話を戻します。
そんなボロボロの状態で毎日それこそボロ雑巾のように扱われていて、しかも私以外のほとんどは小学校低学年とか幼稚園から柔道をやっている猛者ばかりと取っ組み合いをしないといけないため、私は1年生の頃から大怪我を連発しました。
肘の脱臼に始まり、膝の靱帯損傷、半月板損傷、肩鎖関節脱臼という大きな怪我はもちろん、捻挫なんかは日常茶飯事という状態で、常にどこかが腫れて痛いという状態でした。

しかし、当時は根性論の時代。
膝の内側靱帯を損傷した時は監督に、

「怪我は気合いが足りないからするんじゃ〜」

と言われながら、痛めた膝を踏まれてグリグリされました。
先輩からは、

「お前が痛いふりするから監督の機嫌が悪くなった」

と部室でぶん殴られ、

「お前、練習休んだら殺すぞ!」

と脅され、元々弱いのに怪我でその戦力の数分の一も出せない状態でまた毎日柔道でボコボコにされるという日々を送っておりました。
監督の機嫌さえ損なわなければ、昼3時過ぎから始まる練習は夜7時過ぎには終わります。

その時間に終わった時は、今津柔道接骨院に通っていました。
思えば、今津柔道接骨院で治療を受けている時と家で寝ている時だけが心安まる時間でした。(なんせ休み時間でも気を抜くと絞めて落とされるので)

毎日の練習は終わる時間が遅いので、接骨院に行くのはいつも診療時間終了ギリギリ。
道場の後輩で、柔道も柔術もしている私を診てくださるのは、あえて普通の患者さんの治療を終えてからじっくりとやっていただけました。

しかし、患者さんたちの治療が終わるまで、ベッドに寝たり座ってバケツに足を突っ込んでじっとしたりしているので退屈です。
そしてすでに中学生の頃に「将来は接骨院の先生になりたいな〜」と思っていた私は、院内をずっと観察するようになりました。

将来は…!

すでに何度も書いているように、私は理不尽なことが大嫌いです。
そして当時は体育会系にドップリ。
年上が年下に敬語を使うという究極の理不尽はありえません。

しかし吉野家で牛丼を食べても、マクドナルドでハンバーガーを買っても、丸坊主で学ランを着た明らかに高校生のガキンチョ相手に、明らかに年上のお兄さん、お姉さんが敬語で「ありがとうございました」とか「ご一緒にポテトをいかがですか?」(当時マクドナルドはまだセットメニューが存在しませんでした)とか言うんですよね。

正直、大人になってお金をいただくってこんなにも理不尽でイヤなことなのかと絶望していました。
ずっと柔道だけしていたいな、なんて思っていました。
本気で「大人になんかなりたくない」と思っていました。

それなのに、接骨院では患者さんが「ありがとうございました」と頭を下げてお礼を言いながらお金を支払っているのです。
それに気付いた時、頭の中で何かがスパークしたような感覚になりました。

よく考えたら私自身もそうやってお金を支払っていたわけですが、元々親のお金で当時はお金のありがたみもあまりわかっていませんでしたし、道場の先生というフィルターがあったため自覚していなかったんです。

客観的に見て、その事実がわかったとき、

「接骨院の先生になりたいな〜」

から

「将来は接骨院の先生になる!」

に変わりました。

人に感謝されてお金をいただける、当時は接骨院の先生以外にそんな仕事があるなんて想像もしませんでした。(よく考えたら祖父は医者なので同じ状況でしたが全く気付きませんでした 笑)

私の高校生時代は、本当に地獄でした。
これは後の柔道指導にも役立ちますが、私の選手としてのスタイルや性格と報徳学園柔道部のスタイルは全く合いませんでした。

逆に体罰もできない今なら、私はもっと強くなっていたと思います。
それでも、中学生時代弱小だった私が、全国大会まで経験させていただけたのは報徳学園柔道部のおかげですし、小学生とか中学生の頃とは違い、今でも良い思い出だと思っていますし、大切な仲間と出会えたことは本当に財産だと思います。

だから今はOBとして報徳学園柔道部のサポートができればとさえ思っております。
ただ、今の記憶のまま中学生の頃に戻れるのなら、報徳学園ではなく自分に合う強豪校を選択するかもしれません。
柔道が強くなるという目的だけでドライに考えるなら、ですが。(もう一度書きますが、これは私という選手のタイプと当時の報徳学園柔道部のスタイルの相性が悪かっただけで、報徳学園柔道部に問題があったわけではありません)

ちなみに、なぜ私が幼少期から小学生時代まで続いた母親からの虐待をす〜〜〜っかり忘れていたかというと、母親からの理不尽な暴力なんて、高校時代の地獄に比べれば本当に本当にかわいいものだからなんです。
理不尽さも、例えば高校では先輩が、

「おい、カラスは白いやろ!」

と言われれば「はい、白いです」しかありません。
だからそう返事します。すると…

「アホ、黒いわ!」

と言って殴られるわけです。(これ、実話です)

後輩は監督にぶん殴られて流血して、その血が畳に落ちたら「畳汚すな!」とまたぶん殴られていました(笑)

今でこそ飲みに行った時に笑いを取るためのネタになりますが、当時は本当にストレスでしかありませんでしたから、こんな理不尽さに比べれば母親の理不尽さなんて顕微鏡レベルなほど小さなものだったのです。

しかも先述したように母親は中学生時代からは夜中まで飲み歩いていましたし、私も強くなっていたので暴力はふるわれなくなっていました。
なんせその日生きるのにまさに「必死」だったので、ぶっちゃけ家や母親のことなど考えてる暇も精神的余裕もない、そんな日々でした。

たがが外れた大学生時代

実は、高校時代に報徳のスタイルに合わなかった私は、大学で柔道を頑張ろうと思っていました。
そこで、ある強豪校に進学を希望します。
色々リサーチし、当時の自分の知識の中で「ここなら」と思う大学でした。
しかし監督に一蹴されます。(当時は監督の許可がないと大学も決められない時代でした)

違う強豪校の名前を出されましたが、そこは報徳から全然進学していない大学で、なおかつ先輩からのイジメも相当キツいと評判の大学だったことと、当時その大学のOBの先生に嫌な思いをさせられたことなどもあり、その大学は即座に却下しました。
あの理不尽な先輩後輩の関係性と気合いや根性という精神論がどうしても嫌で、柔道は好きで強くなりたいけど、その嫌なことはもう二度と味わいたくないと思っていました。

柔道が強くなれるなら、と高卒で実業団の進路も監督に相談しましたがこれも却下されました。
当時は学歴主義の時代なので「せめて大学くらいは出ておかないと」と言うことだったのでしょう。
中学生時代と比べると学力、偏差値ともにむちゃくちゃ低下してはいましたが、それでもまだ大学受験をするだけのものは残っていました。

「とりあえず大学であと4年は柔道したい」

と思った私は、今の自分の学力でいける大学を探します。
しかし私は理系。
しかも英語が超のつくほど苦手。(英語の偏差値38という数字を叩き出したこともあります)しかも暗記が嫌いなので、物理は得意だけど化学は超苦手。
そうなってくると、理系は崩しが効きません。

センター入試は英語、古文、社会(高校時代、日本史と政治経済は授業すらありませんでした)があるので国公立は到底無理。
関西学院大学、甲南大学あたりは英語と化学が必須になります。(当時)同志社大学工学部や立命館大学は偏差値が届かない。
この消去法で選んだ大学が大阪工業大学でした。

しかもその中で当時一番偏差値が低かった土木工学科を選択しました。
しかしそれでも不合格。
そりゃまあ中学生の頃から約6年勉強をしてなかったわけです。
物理と数学は好きだったので授業を聞いていましたが、嫌いな科目は全部寝ていましたから受かるはずはありません。
結局一浪して大学に行くことになりました。

この時はなんだか人生でものすごく遅れを取った気がしました。
1年間、大して勉強はしませんでしたが、数学と物理は元々偏差値が70近くあったため、英語だけなんとかすればよかったので見事合格。
晴れて大学生になり、4年間柔道を楽しむはずでした。

大学生活の現実

しかし4月に入学するはずのその年、1995年(平成7年)1月に起こったのが阪神大震災。
私の実家も傾きました。
大学に入学する寸前まで水が出なくて、毎日水汲みをしていました。

なんとか入学したものの、まずつまずいたのが通学。
電車が苦手な私が、阪神西宮駅から梅田まで行き、東梅田まで歩き、地下鉄谷町線で千林大宮まで行き、そこから徒歩で結構な距離を歩かないといけない。
苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。

また、私が大学に入った頃はすでに就職難になっていたようで、そういう点で当時の大阪工業大学は県庁や府庁にルート(コネ?)があるようで、教授が超エラそうだったんです。

「お前ら、俺の言うこと聞かなかったら就職でけへんぞ!」

とすぐ言ってました。
元々、大学卒業したら接骨院の先生になる予定の私に、そんな脅しは通用しません(笑)。
嫌いな教授の授業はサボり倒しました。
それに私はもう何度も書いてあるように、理不尽なことが異常なまでに嫌いです。
そんな教授は理不尽でしかありません。
すでに大学を辞めたくなりました。

またちょうどその時、年末から風邪をひいていた祖母が風邪をこじらせ結核になって入院しており、お見舞いにもよく行っていたのであまり大学に行くこともありませんでした。

また、柔道部も弱かったため、所属こそしていましたがほとんど大学柔道部の稽古には出ず、他の大学に出稽古に行くことが多かったので大学自体にあまり通っていませんでした。
ただ、単位の都合でおさえておかないといけない授業もあり、週1〜2回は通学していました。

当時にしては珍しく学生証がIDカードになっていてそれを機械に通して出席と取るので、学生課に「学生証無くしました」とウソをついて数枚学生証を作り、友人数名に渡して「代返」をしてもらっていたんです。

で、先述したようにすでに通学でつまずいていた私は、祖父の車を拝借して車通学していました。
もちろん大学は車通学禁止です。
悪いことをする時は堂々としたほうがバレないもので、上下ジャージで髭を生やして、教員や来客用の駐車場に堂々と停めていると、警備員の人も非常勤講師か運動部のコーチかと思っていたのでしょう(毎日でもないですし)、全然バレませんでした(笑)

しかし、ある日とうとうバレます。
教授室に呼び出しになったのですが、行ってみると私が大嫌いな「俺の言うこと聞かな就職でけへんぞ!」と言ってくる教授でした。

散々罵られました。

「お前、よくも堂々と教員用の駐車場に停めとるな。何を考えてんねん!」

と言われました。
教授の顔を見てすでにキレていた私は

「そもそも、駅から遠いこんな大学に学生用駐車場がないほうがおかしいですよ。例えば流通科学大学は神戸にありますけど学生用駐車場ありますよね。(当時のお話。今は知りません)学生専用駐車場があるのにも関わらず僕が教員用駐車場に停めて怒られるならわかりますけど、学生用駐車場も用意してないのに怒るなんておかしいでしょ。土木工学なんやから、学生に設計させたらよろしいねん。ええ勉強になるでしょ。こっちは震災くらってボロボロの町から出てきとるんですわ!」

と言ってしまいました。
教授激ギレ(笑)

「お前みたいな学生初めてや!覚えとけよ!絶対就職でけへんようにしたる!」

と言われました。
ただ私は土木工学で食っていくつもりなら元々ありません、そんな脅しは通用しないんです。

「あ、そうですか。元々就職する気なんてありませんわ。こんな大学いつでも辞めたりますわ」

と言って、教授の机を蹴って出てきてしまいました(笑)

そんな時、ちょうど地下鉄サリン事件があった頃に祖母が他界。
祖父もその後を追うように半年ほどで他界します。

その頃から、両親の夫婦仲は余計に悪くなります。(元々悪かったのですが、輪をかけて喧嘩するようになりました)19歳にもなって、どっちについていくだの言われてもチャンチャラおかしな話です。
テニスと勉強を私に強要した父…頭のおかしい母…

私の選択肢は「一人で生きていく」でした。
大学に籍を残したまま、整骨院で修業を始めます。

というのも、実は1年生になって理系だけの全国大会があったんです。
そこで初めての日本一を味わいました。

籍だけ置いておいて、もう一度それに出て大学を辞めようと思ったのです。
まあ結局2年生のその試合は三位というふがいない結果に終わったのですが。
結局試合が終わってすぐに大学を中退してしまいました。

接骨院の先生になるには「柔道整復師」という国家資格を取得しなければなりません。
そして柔道整復師の資格を取得するためには、専門学校で3年勉強しないと国家試験を受験することすらできません。
ただ、私がこの業界に入った頃はまだ柔道整復師の専門学校が全国で20校ほど、西日本には大阪に3校あるだけでした。

初任給1万円からスタート

親の事情、そして柔道整復師の学校に関わる情報が全然ない時代、修業を始めた整骨院の院長の言うことだけが情報でした。

いわく
「鍼灸からしか入れない」

いわく
「寄付金を積まないと入れない」

全部ウソでした。
でも、そんな時代でした。

柔道整復師になりたいのに鍼灸の学校に入れられました。
もちろん寄付金を払って。
(私の出た明治東洋医学院は両方の学科がありましたので結局6年も同じ学校に通うことになります)

実家を出た私は住むところがないので、風呂のないボロボロのアパートに住み込みです。
初任給はなんと1万円。
そういう時代でした。

鍼灸学校に入れてもらう前の1年、そして資格取得後は「お礼奉公」と言って最低1年は辞めてはいけないというルールまでありました。

いざ働くとこれまた理不尽の極みです。
朝から晩までこき使われます。まだ学校に行く前は、昼休みや休日は院長の車を洗車したり兄弟子のマッサージをしたり買い物をしたり(いわゆる使いっ走りですね)
平日の夜はマッサージの練習を日付が変わるまでやらされる。

褒められることなんて絶対になく毎日ひたすらダメ出し。
しかも当時はマニュアルなんてものはないし何も教えてもらえないので、ひたすら兄弟子や院長が患者さんを触っているところを見て手順を覚えていきます。
わからないから兄弟子に聞いても「なんでお前に教えなあかんねや?」と言われ教えてくれません。
たまに教えてもらったらウソだったなんてこともありました(笑)

しかも柔道の現役選手だったので稽古もしないといけない、という状況でした。
いや〜、若かったからできたんだと思います。

もちろん暴力もありました。
デキが悪い、気に入らないと殴られることもありました。
さすがに高校時代ほどの頻度ではなく年数回程度でしたが、ほんと当時はそういう時代でした。

この業界のイロハを教えていただきましたが「このままここにいて、柔道整復師の学校までここから口利きしてもらったら飼い殺される!」と思い、柔道整復師の学校のときは学校内部の当時そこそこエラい人と仲良くなり(たまたま柔道つながりで共通の知り合いがいたんです)、その人の口利きで柔道整復師の学校に入学。
とは言っても同じ学校ですが…

鍼灸師になってきっちり1年、在籍5年で退職しました。
最初の修業先の院は、院長こそ「接骨院は年寄り相手の水商売や」と豪語する人でしたが、兄弟子に治療の勉強にとても熱心な人がいたおかげで治療技術の勉強をすることができましたし、患者さんからも「痛くなくなったわ〜」とか「楽になったわ〜」と言われるようになることができました。

また、当時のこの経験、まさに治療という仕事を身体に叩き込まれたことは非常に財産で、開業するまでの技術を身につけられたのも、開業してから10年以上西宮市や芦屋市、宝塚市、尼崎市といった近隣だけでなく、神戸や姫路、大阪や滋賀などからも患者さんに来ていただけるようになったのもこの時のこの経験があったからだと思います。

医療とはかけはなれた職場でのストレス

私はいつか開業しようと思っていましたので、技術も経営も両方学べるところで働きたいと思っていました。
そして、流行っている院は技術があるから流行っていると思っていましたし、実際最初に修業した院も1日に100人以上受診される院でした。

そんな時、知り合いに

「私の知り合いで西成でむちゃくちゃ流行っている院を経営してる人がいて、鍼灸師欲しいって言ってるよ」

と教えていただいたので、即そこで働くことにしました。

西成

働いてビックリ!
1日に250人とか280人とか受診されるんです。
勤務初日は本当に度肝を抜かれました。

この院は凄い!治療技術のレベルが相当高いからこんなに流行ってるんだろう。
ここで一番になってやる!そう思って頑張りました。

しかし少し働いて内部事情がわかって2度目のビックリ!

その院は決して腕が良いから流行っていたというわけではなく、超がつくほどの過剰なサービス、異常な労働時間でした。
これは要するに受付時間が長いということと、急患でもないのに受付時間が終了してから来院された患者さんも受け入れるという状態が原因だったのですが…

また利益至上主義から、院主催のミーティングや勉強会はほとんど治療技術的な内容はありませんでしたし、あってもかなり低いレベルでした。

患者さんとの会話の仕方(吉本新喜劇を見にいけとよく言われました)、スタッフのモチベーションを上げるために時には怒鳴ったり、時には優しく感動話をしたりと「明らかに医療とは違うモノ」になってしまっていることに相当の違和感を感じながらも我慢していました。

もちろん「これではイカン!」と思い、何度も治療レベル向上の提案をしましたが「それで儲かるわけでなない」と全て却下されました。
分院長や本院の副院長をさせていただきましたが、毎日「数字だけを考えろ」と嫌味を言われていました。

この頃は凄い危機感を感じ、自分で治療のセミナー等を探して参加したり、知り合いの院に見学にいかせていただいて技術を教えていただいたりして、それを隠れてコソコソ患者さんに使ってマスターしていくということをやっていました。
柔道整復師の資格を取得するために学校に通いながら鍼灸師として勤務し、無事柔道整復師の免許を取得しました。

と、ここで3度目のビックリ!
なんとこの院、保険の不正請求をしていたのです。

私が知ったのは、私がいつも診させていただいていた患者さんからの相談でした。

「松村先生、私っていっつも週1回ここにお世話になってるよね?」

と治療を始めようとするとそう言われたのです。
事務的なことには一切関わっていませんので何もわからない私は正直に答えます。

「そうですね、〇〇さんはだいたい毎週水曜日に来られますよね」

と。

すると

「そうよね。実は区役所から郵便が届いて、それ見たらここ数ヶ月間毎月25日くらい通ってることになってるねん。誰かと間違ってるかもしれへんから、先生確認してみてくれへん?」

と言われたんです。

「これが噂に聞く不正請求か〜」

と思いましたが、まだ確証が持てないので「わかりました」とだけ伝え事務の責任者に報告しにいきました。
するとえらい剣幕で怒られました。

「そんなもんこっちは電気当てて全身触ってニコニコしてサービスしとんねん!何カ所触ってる思ってんねん。最高5部位までしか請求でけへんねんぞ!(当時)それやったら足りひんから、日数足してるんや。わかるか?お前もええかげん数字のこと考えよ!〇〇さんにもそうやって言っとけ!」

と言われたんです。
「この院、本当に終わってるな」と思いました。

退職したかったのですが奨学金を借りて学校に行っていたので、資格を取得してすでに卒業している私は、奨学金の返済があります。
「返せなくなったらどうしよう」と不安になりましたが、やはり私は理不尽が嫌いです(笑)。
そんな迷いは一瞬で切り捨て、退職を決めました。

その患者さんには

「この院は不正請求をしているようです。私は事務的なことに関わることができないのでそれを止めることはできません。なので私も退職することにしました。ですから〇〇さんも不正請求されるのは嫌でしょうから、うちの院に受診するのはお辞めになり、しかるべきところに通報してください」

と伝えました。
するとその患者さんは

「松村先生にはずっとお世話になってるから、先生がいる間はこのまま通院するわ。松村先生が辞めたあとに色々考えます」

と言われました。
嬉しい反面、患者さんにも気を使わせるなんて…と自分の無力感とこの院の不正行為への嫌悪がその患者さんを治療させていただく度に大きくなっていきました。

次、どこで働こうかな?
最初はそう思っていました。

しかし最初に修業した院は、兄弟子に良い先生はおられお世話になったものの、院長の思考は金儲け優先。
そして西成の院はそれだけでなく不正行為までして、なおかつそれが悪いことだと思っていないという始末。

それに散々現場の責任者をやり、ストレスで内臓を壊してまで(膵炎ページ参照)働いていたにも関わらずこの裏切られようです。

「やはり自分の理想の院を作るためには、自分で開業するしかない」

そう決意しました。

頓挫しかけた開業計画

いや〜、人生ってなかなかトントン拍子には進んではくれませんね。

西成の院の退職を決めたものの、すぐには退職できません。
結局半年ほど働かされましたが、その間に開業の準備をすることにしました。

開業するには公的機関や金融機関からお金を借りないといけません。
色々手助けしてくださる方と知り合う機会に恵まれたものの、まさかまさかのここで久々に母親の登場です。

なんと私名義で勝手にサラ金で200万近くの借金をしていたのです。
事業資金の借り入れの場合、サラ金でお金を借りているとほぼ絶対融資はしてもらえません。
今まで積み上げてきたものが、音を立てて崩れ落ちたかのように思えました。
さすがに恨みました。

「中学生の頃からの俺の夢を…」
「子が親に迷惑掛けるのはある意味道理だが、親が子に迷惑かけるって…」

怒りで手が震えたのは初めての経験でした。
しかし、名義は私ですので私が借金したという事実になってしまっています。
これをなんとかしないとどうにもできませんが「修業」という名のもと、むちゃくちゃな安月給で働いてきた私にとって、200万というのは当時でも2年弱働いてようやくいただける金額でしたので、一括で支払うことなんてできません。

開業を諦めかけたのですが、その時にうちの院の建物を建ててくださる社長さんから

「まっちゃん、その200万立て替えたるわ。で、資金借り入れが終わったらそこから俺に払え」

と言ってくださいました。
借用書もなしで、本当に「ポン」と貸してくださいました。
あの方がいなければ、もしかしたら今でもこの西宮市にまつむら鍼灸整骨院は存在してなかったかもしれません。(私の人生は身内には迷惑をかけられっぱなでしたが、その分以上に他人に助けられている人生だと思います)

一流チームでのトレーナー経験

すったもんだはあったものの、なんとか開業の目処は立ちました。
しかし当時中国の建設ラッシュのため鉄不足で鉄骨がなかなか入らず、本来は平成16年の秋には開業できる予定が、建物が建つこと自体が年末ギリギリか年明けの平成17年になるという状況になりました。

そんな時
「短期でいいから、分院長してくれ!」

と知り合いにお願いされ、11月までの数ヶ月間勤務させていただきました。
当初1月開業の予定だったため、12月は開業準備にあてようと考えていたのですが、結局院ができるのは2月頃と言われてしまいます。

「おいおい、2月までお金ないで…」

と思っていたところ柔道整復師の専門学校時代の先輩から電話がかかってきました。

「まっちゃん、ラグビーのトレーナーやってくれへんか?ギャラも結構出るで!」

という内容でした。
正直、野球やサッカーは全然知らないし興味もないのですが、生活費が必要だったのと球技で唯一好きなのがラグビーだったので即答で「行きます!」と答えました。

当初「社会人のラグビーチーム」としか聞いていなかったのですが、合宿に参加する前々日に「サンヨーワイルドナイツ」というトップリーグのチームであるところだと知らされびっくりしました。
練習嫌いなトンガ人にいかに練習休ませないか、痛みにナーバスな選手をいかに納得させるかなど、かなり頭を悩ませながらも結構楽しく仕事をさせていただきました。

合宿最終日にはなぜか契約金の話と契約年数、年棒の話をされたのですが、開業が決まっていたので泣く泣くお断りさせていただき(この時は当時の監督直々にかなり熱心に誘っていただき、後日お電話までいただいたので本気で開業を3年ほど延期しようかと思ったほどでした)、ちょうど年末ギリギリに建物も完成し引越できるということで、平成16年で仕事を納めることとなり、本格的に開業に向けての準備をし、めでたく平成17年2月14日に開業することとなりました。

なったのですが…

いざ開業して…

方法はどうあれ、患者さんが1日100人とか200人とか受診する院でずっと働いていたので、私は「開業したら患者さんは来る」と思い込んでいました。

よくよく考えたら立地的にも、最初の院はバス停の真ん前、西成の院は駅から徒歩30秒という立地でしかも当時すでに開業して10年以上経っている院です。
私の院のように、JR西宮駅からも阪神西宮駅からも徒歩6分程度の距離とはいえ、一方通行だらけで人通りのないところにある院に人が来ることはありませんでした。

開業初日はなんとゼロ。

あまりにも暇で、漫画を読んでいたのを今でも覚えています。
翌日も、そのまた次の日もゼロ。

「おいおい、こんなんでやっていけんのかいな?」

と不安になりました。

しかし開業したその週の最後に、町内の染殿町の患者さんが1人だけ来てくださいました。
その方がご家族やご友人を紹介してくださり、そうやって受診された患者さんがまたご家族やご友人を紹介してくださり…と、急に忙しくなりました。

開業当初からのスタッフだけでは間に合わなくなり、受付スタッフ、そして治療スタッフも雇わないといけなくなってきました。開業して半年ほどで、平均で1日80人以上の患者さんに来ていただけるまでになりました。

この頃は必死でした。
来て下さった患者さんを一生懸命治療する、そして患者さんが笑顔で「ありがとう!」と帰られる、まさに理想の院を作ったと思っていました。

ただ、この頃はプライベートでの人間関係に悩まされた時期でもありました。
一部の先輩や同級生や後輩は、私が独立開業して院が流行っているのが気に入らなかったようなのです。

「松村は調子に乗ってる」
「松村は脱税してる」
「松村はなんかあくどいことしてるはずや」

などと根も葉もないことで噂を立てられました。
しかも、その噂を聞いた人が

「まあ火のないところに煙は出ないからな」

と私から去っていくということもありました。

ただ、凄く嫌な思いはしたし落ち込んだりもしたのですが、ありがたいことに当時の私は日々が忙しすぎてそんなことにかまけている暇がなかったのです。
今はもうその人たちとは付き合いもありませんのでどこでどうしてるのかすらわかりませんが、仕事に助けられたと思います。

理想の院から遠ざかるジレンマ

多い時で、受付スタッフ、治療スタッフ合わせて6人ほど雇用している時期がありました。
理想の院を作るために開業したはずの私が、スタッフに給料を支払わないといけないというプレッシャーから、自分の理想の院からどんどん離れた院になっていっていることに気がつきながらも「漕ぎ出した船は停められない」とばかりに、前進するしかない状況になっていました。

また、この時はまだ健康保険の取扱をしていたので様々な制約があり、患者さんに自分の最高の治療を提供できないジレンマに苛まれていました。

スタッフ雇用・教育に悩まされ…

また、そんなジレンマとは別に「スタッフ問題」に常に頭を悩ませるようになりました。

元々、私がこの業界に入った頃は初任給1万円という環境で、正直開業するまでコンビニに行って財布の中身を気にせずに買いたいものをカゴに入れるということはできませんでした。
また、もちろんですが雇用保険や社会保険などの福利厚生などはありませんでした。

「私の院で働いてもらうスタッフにはそんな苦労をさせたくない」

と思い、基本給も高めにし、法を遵守して福利厚生もしっかりとつけていました。
それだけでなく歩合給なども取り入れ、かなり高い給料を支払うようになっていました。
しかし、スタッフは

「彼女にフラれた」
「なんだか気が乗らない」
「給料が安い」(いやいや、業界でも高いほうだったのに!)

などと言い、ダラけた仕事をします。
本当は治療セミナーに行きたいのに、経営セミナーに行くことを増やしました。
定期的な飲み会、とりあえず褒めること、その他マネジメントなどを学びましたが、そんなことをしている自分がなんだかバカみたいにも感じていました。

我々はプロなわけです。
彼女にフラれようが自分の身体がしんどかろうが、それは患者さんには全く関係のないことで、どんな状況でも全力で仕事をするのが私のプロ哲学です。

例えば私はバイクの免許を持っていて、開業するまではバイクに乗っていました。
バイクも結構楽しくて、たまにツーリングにも行っていました。

しかし、やはりバイクは危険。
たとえ自分に責任のない事故であっても、私の手が動かなくなるような怪我をしたら終わりです。
だから開業と同時にバイクを後輩に譲り封印しました。(もちろん今も一切乗っておりません)

患者さんが大切な自分の身体を安心して預けていただくためには、それくらいのプロ意識を持つのが当たり前なのです。
それなのにスタッフをなだめ、すかし、機嫌を取って仕事にやる気を出してもらう…

「この状況はなんだ、まるで幼稚園じゃないか」

そう思って、なんだか仕事に対する情熱まで失いそうになりました。
すべてが馬鹿らしくなってしまいました。
雇用した時はやる気がある素振りをし、それを期待して雇用しては裏切られるということが数年間続きました。
この時期ほど人間不信になったことはありません。

迷走したまつむら鍼灸整骨院

新たなスタッフ雇用を辞め、所属するスタッフのほとんども退職していただくことにしました。

一人だけ、18歳から勤務した子はしっかり国家資格を取得しこれから、という時に彼の父親が癌で他界。
学費を自分で支払いながら鍼灸あんまマッサージの学校に行きたいということと、その鍼灸あんまマッサージの学校の授業が朝から夕方まであるため、勤務時間が1日3時間程度になるため給料もそれほど出せないということになり、その彼も退職することになり、私は一人になりました。

1日80人近くを1人で診ることなど到底できません。
待合室は常にいっぱい、椅子にも座れず1時間以上立って待たないいけないという状況になりました。
また、私自身もスタッフ問題による心の疲労と毎日の忙しさによる身体の疲労で、毎日イライラしていました。

とうとう患者さんから

「先生のところ、いつもいっぱいやしむちゃくちゃ待たなアカンからもう来るのやめるわ」

という声がチラホラと出るようになります。
開業当初、あれほど「患者さん来てくれへんかな!」と思ってた私が「患者なんて来なかったらええのに」とまで思うようになっていました。

それでも生活のための惰性の仕事で、1日に60人ほどの患者さんを治療し続けておりました。
30代で血圧が180を超え、無呼吸症候群になり、夜に呼吸が止まって苦しくて何度も目が覚める、そんな状況にまでなりました。

また、この頃は行政からの保険の締めつけも厳しくなり、毎日ヘトヘトになるまで治療をしても所得が減っていくという状況で、まさしく身も心もボロボロになっていました。

毎日忙しくて死にそう、かと言ってもう人は雇いたくない、行政の締めつけは厳しくなる一方で提供したい治療を存分に提供することもできない、という当時の私としては八方塞がりの状況になり

「もう、院を閉めようか」

と思うようになりました。
毎日寝る前に

「院閉めたらどっかで働かなアカンな〜」
「今更雇用されて辞めずにやってけるかな〜」

などと考えていました。
この頃の私は、完全に負け犬でした。

今後を左右する決断

開業してからずっと、私は「社団法人 兵庫県柔道整復師会」という柔道整復師の公的団体に所属し、執行部員として会の仕事にも携わっていました。
忘れもしない2012年10月、私はこの会の支部総会というものに出席します。

その総会で「元・会のえらい先生」で地域ではそこそこ大御所と言われる先生が

「君ら若いもんがもっと請求を出せ!ビビるから行政がつけあがるんだよ!肩こりなんかは首の捻挫でいいんだよ!それだけだったら単価低いからどこかの捻挫も付け足して請求したらいいんだよ!」

と、まさかの不正請求の強要のようなことを発言されました。

西成のあの院を思い出し、むちゃくちゃ頭に来たのでそのまま帰りました。
あんなのが大御所とされているこんな業界はもうダメだ、もう辞めよう、そう考えました。

しかしいざ閉院を考えた時、開業して院が流行りだして忙しくしていた時期に「調子乗ってる」だの「脱税してる」だの根も葉もない噂を立てた人達の顔が浮かんできました。

今、自分が負け犬のような状態になっているのをあいつらが見たら、絶対にあざ笑うだろう。
そう思うと本当に悔しくて悔しくて泣けてきました。

「まだ、負けるわけにはいかない!」

そう思いました。
そして、そこで初めて自分が迷走していることに気がついたのです。

私は、患者さんに「ありがとう」と言っていただきたくてこの仕事を選択したはずだったのです。
それなのに、スタッフに翻弄され日々の忙しさに翻弄され、そんなことをすっかり忘れ、ただ生きていくためだけに仕事する。
そんな自分のプロ哲学からも逸脱するようなことをしていたのです。

「もう一度開業するつもりでやり直そう!」

そう決めました。

そして、翌年の2013年から制約が多く、自分の技術の10分の1も発揮できない保険でやり続けるよりも、私が今まで学んできた技術を出し惜しみすることなく提供できる自費治療にしようと決めました。

今まで受診されていた患者さんには、ひとりひとり丁寧に説明させていただきました。

「へ〜、先生あれで本気じゃなかったの?楽しみやな〜」
「そっちのほう(自費治療)が助かるわ!」

という喜びの声をいただく一方で

「もう来えへんわ!」
「先生も金儲けに走るんやな!」

という声もいただきました。

面白い(と言えば不謹慎ですが)、開業当初から来ていただいていた患者さんからは、ほとんど歓迎のお言葉をいただき「先生、頑張ってや!」と言っていただき、スタッフを雇用している時や迷走している時の患者さんからは大クレームをいただくという感じになりました。
やはり仕事に対する姿勢がそのような差を生んだのだろうと感じました。

閉院の危機

2013年1月から、完全予約制、完全自費治療の整骨院としてリスタートしました。
残ってくださった患者さんはいたものの、それだけでは売上は全然足りません。

開業した時の借金の返済もまだ残っていたのですが、売上の金額より返済の金額のほうが多い状況になりました。
「このままだと半年もたない」という状況に追い込まれました。

「やっぱり俺はもうアカンのか」

と絶望しかけました。
しかし残っていただいた患者さんのことを考えると、このまま潰れてしまうわけにはいきませんでした。

復活

今まで私が勉強をすると言えば治療のことがメインで、スタッフ雇用をしていた時だけマネジメントや経営のことを勉強していましたが、それ以外は全く無知でいわゆる「治療バカ」でした。
そんな私が、初めて治療以外のことを勉強することとなります。
それは「マーケティング」というものでした。

ただ当時は「マーケティングって値引きとかで人を煽って胡散臭いものを売りつけるヤツでしょ」という認識でした。
ある本を買ってその認識がガラリと変わりました。
その本には「良い商品を売ってる会社にこそ、この本を手に取って悪徳会社に負けないで欲しい」という旨のことが書いていました。

そもそも悪い商品を売っている会社は、それを認識してるからこそあの手この手で宣伝してなんとか人に売りつける努力をする、しかし、良い商品を扱っている会社はその商品にあぐらをかいて「良い商品だから売れる」と勘違いして売るための努力をしない。
そう書かれていました。そしてトドメに

「良い商品を、それを必要としている人に届ける努力をしないのはもはや罪だ」

という意味のことが書かれていました。
まさに私のことを言われているんじゃないかと思いました。

私の治療を受けてくださった方はみな「ありがとう」と言ってくださいます。
しかし、そもそも私のことを知らない人のほうが多いのです。
それなのに

「絶対に良い治療のはずなのになんで患者さんが来ないんだ!」

と思っていました。
そこから、マーケティングを勉強しました。
そこで学んだことは、患者さんの悩みを深く知り、患者さんにとって必要な治療を適切なタイミングで提供することが重要であるということでした。

まず治療を見直しました。
それだけでなく、治療の説明、治療スケジュールが、本当に患者さんにとって必要かどうかを考え全てを作り直していきました。
また、私の想いや考え方を発信することを始めました。
するととても面白いことが起こりはじめました。

まず治療効果が飛躍的にアップしました。
明らかに治療レベルが上がったのです。
マーケティングの勉強をして、治療の効果が上がるとは思わぬ副産物でした。

そこから不思議なことが起こり始めました。
別に宣伝などしなくとも、自然に患者さんが来られるようになったのです。
そして、開業の時の患者さんがご家族やご友人を紹介してくださり、紹介で受診された患者さんがまたご家族やご友人を紹介してくださる、そんなことが起こり始めました。

私の迷走からの思い切った方向転換まで、ずっとついてきてくださった患者さん、そして治療を受けてくださりご家族やご友人を紹介してくださった患者さんのおかげで、なんとか経営危機を乗り切ることができたのです。

生まれ変わったまつむら鍼灸整骨院

2013年最初の経営危機を乗り越え、ひたすら患者さんを治療させていただくことだけに集中してきました。
また、新たな治療技術を学んでいるのですがこれがまた異常に効果的であり、私はメインの治療法をそちらに切り替えることにしました。

ただ私の治療レベルの向上に、自分の院がついてこれなくなってきました。

また私は、治療というのは単に悪い身体を良い身体に戻すだけでなく、身体が今よりもさらに良い状態にすることだと思っております。
そんな中で私自身も行っている筋肉トレーニングを提供させていただき、更に良い状態の身体を新たに作っていくことができるようなメニューも取り入れることで、悪い状態を良い状態にし、その後更にパフォーマンスアップをすることができるようになります。

これらを考えると開業当初の院では全てを行うことができない状態になり、2018年2月に院を全面改装し、新生まつむら鍼灸整骨院として生まれ変わりました。

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