たがが外れた大学生時代

実は、高校時代に報徳のスタイルに合わなかった私は、大学で柔道を頑張ろうと思っていました。そこで、ある強豪校に進学を希望します。色々リサーチし、当時の自分の知識の中で「ここなら」と思う大学でした。しかし監督に一蹴されます。(当時は監督の許可がないと大学も決められない時代でした)

違う強豪校の名前を出されましたが、そこは報徳から全然進学していない大学で、なおかつ先輩からのイジメも相当キツいと評判の大学だったことと、当時その大学のOBの先生に嫌な思いをさせられたことなどもあり、その大学は即座に却下しました。あの理不尽な先輩後輩の関係性と気合いや根性という精神論がどうしても嫌で、柔道は好きで強くなりたいけど、その嫌なことはもう二度と味わいたくないと思っていました。

柔道が強くなれるなら、と高卒で実業団の進路も監督に相談しましたがこれも却下されました。当時は学歴主義の時代なので、「せめて大学くらいは出ておかないと」と言うことだったのでしょう。中学生時代と比べると学力、偏差値ともにむちゃくちゃ低下してはいましたが、それでもまだ大学受験をするだけのものは残っていました。

「とりあえず大学であと4年は柔道したい」

と思った私は、今の自分の学力でいける大学を探します。
しかし私は理系。しかも英語が超のつくほど苦手。(英語の偏差値38という数字を叩き出したこともあります)しかも暗記が嫌いなので、物理は得意だけど化学は超苦手。そうなってくると、理系は崩しが効きません。

センター入試は英語、古文、社会(高校時代、日本史と政治経済は授業すらありませんでした)があるので国公立は到底無理。関西学院大学、甲南大学あたりは英語と化学が必須になります。(当時)同志社大学工学部や立命館大学は偏差値が届かない。

この消去法で選んだ大学が大阪工業大学でした。しかもその中で当時一番偏差値が低かった土木工学科を選択しました。しかしそれでも不合格。
そりゃまあ中学生の頃から約6年勉強をしてなかったわけです。物理と数学は好きだったので授業を聞いていましたが、嫌いな科目は全部寝ていましたから受かるはずはありません。結局一浪して大学に行くことになりました。

この時は、なんだか人生でものすごく遅れを取った気がしました。1年間、大して勉強はしませんでしたが、数学と物理は元々偏差値が70近くあったため、英語だけなんとかすればよかったので見事合格。晴れて大学生になり、4年間柔道を楽しむはずでした。

大学生活の現実

しかし4月に入学するはずのその年、1995年(平成7年)1月に起こったのが阪神大震災。私の実家も傾きました。大学に入学する寸前まで水が出なくて、毎日水汲みをしていました。

なんとか入学したものの、まずつまずいたのが通学。電車が苦手な私が、阪神西宮駅から梅田まで行き、東梅田まで歩き、地下鉄谷町線で千林大宮まで行き、そこから徒歩で結構な距離を歩かないといけない。苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。

また、私が大学に入った頃はすでに就職難になっていたようで、そういう点で当時の大阪工業大学は県庁や府庁にルート(コネ?)があるようで、教授が超エラそうだったんです。

「お前ら、俺の言うこと聞かなかったら就職でけへんぞ!」

とすぐ言ってました。
元々、大学卒業したら接骨院の先生になる予定の私に、そんな脅しは通用しません(笑)。嫌いな教授の授業はサボり倒しました。それに私はもう何度も書いてあるように、理不尽なことが異常なまでに嫌いです。そんな教授は理不尽でしかありません。すでに大学を辞めたくなりました。

またちょうどその時、年末から風邪をひいていた祖母が風邪をこじらせ結核になって入院していたので、お見舞いにもよく行っていたので、あまり大学に行くこともありませんでした。

また、柔道部も弱かったため、所属こそしていましたがほとんど大学柔道部の稽古には出ず、他の大学に出稽古に行くことが多かったので、大学自体にあまり通っていませんでした。ただ、単位の都合でおさえておかないといけない授業もあり、週1〜2回は通学していました。

当時にしては珍しく学生証がIDカードになっていてそれを機械に通して出席と取るので、学生課に「学生証無くしました」とウソをついて数枚学生証を作り、友人数名に渡して「代返」をしてもらっていたんです。

で、先述したようにすでに通学でつまずいていた私は、祖父の車を拝借して車通学していました。もちろん大学は車通学禁止です。悪いことをする時は堂々としたほうがバレないもので、上下ジャージで髭を生やして、教員や来客用の駐車場に堂々と停めていると、警備員の人も非常勤講師か運動部のコーチかと思っていたのでしょう(毎日でもないですし)、全然バレませんでした(笑)

しかし、ある日とうとうバレます。教授室に呼び出しになったのですが、行ってみると私が大嫌いな「俺の言うこと聞かな就職でけへんぞ!」と言ってくる教授でした。

散々罵られました。

「お前、よくも堂々と教員用の駐車場に停めとるな。何を考えてんねん!」

と言われました。
教授の顔を見てすでにキレていた私は

「そもそも、駅から遠いこんな大学に学生用駐車場がないほうがおかしいですよ。例えば流通科学大学は神戸にありますけど学生用駐車場ありますよね。(当時のお話。今は知りません)学生専用駐車場があるのにも関わらず僕が教員用駐車場に停めて怒られるならわかりますけど、学生用駐車場も用意してないのに怒るなんておかしいでしょ。土木工学なんやから、学生に設計させたらよろしいねん。ええ勉強になるでしょ。こっちは震災くらってボロボロの町から出てきとるんですわ!」

と言ってしまいました。教授激ギレ(笑)

「お前みたいな学生初めてや!覚えとけよ!絶対就職でけへんようにしたる!」

と言われました。
ただ私は土木工学で食っていくつもりなら元々ありません(笑)そんな脅しは通用しないんです。

「あ、そうですか。元々就職する気なんてありませんわ。こんな大学いつでも辞めたりますわ」

と言って、教授の机を蹴って出てきてしまいました(笑)

そんな時、ちょうど地下鉄サリン事件があった頃に祖母が他界。祖父もその後を追うように半年ほどで他界します。

その頃から、両親の夫婦仲は余計に悪くなります。(元々悪かったのですが、輪をかけて喧嘩するようになりました)19歳にもなって、どっちについていくだの言われてもチャンチャラおかしな話です。テニスと勉強を私に強要した父…頭のおかしい母…

私の選択肢は「一人で生きていく」でした。大学に籍を残したまま、整骨院で修業を始めます。

というのも、実は1年生になって理系だけの全国大会があったんです。そこで初めての日本一を味わいました。

籍だけ置いておいて、もう一度それに出て大学を辞めようと思ったのです。まあ結局2年生のその試合は三位というふがいない結果に終わったのですが。結局試合が終わってすぐに大学を中退してしまいました。

(柔道整復師・鍼灸師 松村正隆 監修)

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